老子と情報社会みたいな...

老子によると「理想の君主」とは「ただ人々が君主が存在することを認識しているだけで、君主が人々に働きかけることがない」ものだと説いている(らしい、、、道德經六十六あたり?)。

古代中国の戦乱の時代、国を治め拡大する方法論として様々な思想が打ち出されたが、老子の場合は何も(積極的な働きかけを)しない、「人為」を加えることをやめることによる天下の安定を説いたのだろう。

この時代は「王による一元的な支配」の時代であり、支配者すなわち一番に人為を加えるであろう存在は国王であった。だからこそ、人為を否定する趣旨の道徳経ではその国王の心構えのようなものを示した。

一方、現代は情報が人々に影響を及ぼす時代であるといえる。人々の価値判断は、様々な形で様々な場所から入ってくる情報をもとに行われる。一元的ではない、情報による支配だ。この構図に先ほどの「理想の君主」論を当てはめると、「理想の情報」とは「ただ人々がその情報が存在することを認識しているだけで、情報が人々に働きかけることがない」ようなものだと言える。つまり、君主を「聖人」であるとか「仁政」を行なっているとかいう形で貴ぶべきでないのと同じように、情報を「信憑性」があるとか「面白い」といった形で貴ぶべきでない。ただ単にそこに存在しているだけで、何も強制するものはない。何も影響するものはない。そういった考えになるのだろう。

無論この考え方は「理想の君主」論と同じくかなり難易度が高い。しかしながら、現代という時代によくフィットしているようにも思う。 今の時代、信憑性とか、この文章・画像・音etcの示している本当の意味とか、いいのか悪いのかとか、そういう「答え」みたいなものが全然わからなくなってきている。

だから、情報はただそこに存在しているだけで十分。検証するとか、何か深読みしてみるとか、そういう人為=頑張って掘り下げたり読み解いたりすることは必要ない。むしろ、そんなことがどんどん不可能になってきている世の中。無論、そういった人為の試みもまた新たな情報として生成されるが、それはただ単に情報同士の繋がりのネットワークが更新されただけのことで、何ら意味があることではない。